魔法のように人類はみずから進化する P.452〜

‥‥ひとたびヒトの遺伝子操作が──どんな目的であれ──実現可能になると‥‥‥さらには、ヒトの脳のように複雑な神経回路網を発展させるすべを理解したら、親たちはそれを使って、子どもに改良された魂を与えることができるのだろうか?
現時点で最先端とされているテクノロジーの必要度は時間の経過とともに低下していくので、バイオテクノロジーを使うか使わないかについて今日わたしたちがどんな決定を下そうと、将来の社会にはなんの作用も及ぼさないだろう。ごくひいきめの仮定でも、わたしたちの現在のテクノロジーは、今から500年後に利用可能なテクノロジーの1%未満を占めるにすぎない。だから、明らかに、わたしたちが理解すらできない将来の社会のことを心配するのも、コントロールしようとするのも無意味なことだ。しかし、それでも好奇心から、わたしたちはどうしても思いを巡らしてしまう。
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最も興味をそそる疑問は、遺伝子工学が人類の性質を一度でも変えることがあるのかどうかだ。
”ありうる”という考えに反対する最も単刀直入な哲学的思想と思えるものを提示したのはレオン・カスで次のように書いている。
「人間は(アリストテレスの定義によれば)魂の持つ”最高の”能力を有するとともに、”すべてが揃った”能力も有するという点で、至高の存在なのだ。未来に目を向けても、人間より高きものがありうるだろうか?‥‥確かに、われわれはもっと知的な、もっと機敏な、もっと記憶力のいい、もっと精力的な存在になりうるし、もしかするとやがてそうなるかもしれないが、われわれ自身または魂にとって何か本当に新しいものを想像できるだろうか‥‥魂の向上の物語は、すでに完結しているかもしれない。」
カスの霊感の(もしくは霊感の欠如の)源流は、ユダヤキリスト教の信念にあり、彼は、創世記第二章第二節の「神は第七日にその作業を終えられた」という記述をもとに、人間の魂は神の創造性の神聖な終着点を象徴していると考えるのだ。

人間は純然たる進化の産物

わたしは、人類は純然たる進化の産物であると見ているが、人間よりも”高きもの”とは何を意味するのか──カスと同じく──想像することはできない。それでもやはり、ヒトのゲノムをほかの哺乳類のゲノムと比較したとき、わたしたちのゲノムがなんらかの系統の”終わり”に位置しているという証拠は見つからない。おそらく、ホモ・エレクトスから見ると、標準的なホモ・サピエンスの言語と分析能力は、想像すら及ばないものだっただろう。もしポスト・ホモ・サピエンスというものが出現するとしたら、ホモ・サピエンスであるわたしたちが今日の立場からポスト・ホモ・サピエンスの性質を認識することなどとてもできない。
次の人類が生まれる”可能性”を高めるのは、そもそも理にかなったことなのか?それが神もしくは母なる自然に対する思い上がった挑戦を強く匂わせるので、一神教を信奉する人々は当惑する。実用主義的な思考の持ち主である分子遺伝学者は、そういう考えが優れた科学とは正反対の霊性や魔法を強く匂わせるので、退けたり無視したりする。
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わたしたちはテクノロジーが短期間で成し遂げられることを過大評価するのに対して、科学者は決まってテクノロジーが長期間に成し遂げられることを過小評価する。なぜなら『2001年宇宙の旅』の著者、アーサー・C・クラークが1962年に言ったように「じゅうぶんに進歩したテクノロジーはどれも魔法と見分けがつかない」からだ。
エアコン、飛行機、抗生物質、自動車、カメラ、コンピュータ、サイバースペース、‥‥などなど、過去の世代の最も教育程度の高い人々に説明しても、魔法のように思えるだろう。きっと未来でも同じように、魔法が起こって人類はみずから進化を遂げる。その物語がどのような結末になるかを見届けることができないことを、わたしの中の科学者はとても残念に思うのだ。
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※私たち日本人の多くは、ここで言われている「魂」の意味が多分よくわからないだろうと思う。P.157に「人間の胚は完全で唯一無比の人間である」という理論の本来の表現によると、双子の誕生、キメラの形成、胎児を死に至らせる突然変異の存在はすべてありえない。‥‥しかし、実際には、ある程度の確率で、不幸な形態で誕生する実例が存在する。頭が一つで心臓が二つ、頭が二つで脊椎ほかが一人分といった例がいくつか記述されている。この場合、魂と呼べるのは、いくつと考えるのだろうか。私も本書の著者と同じく、「人間は純然たる進化の産物」と考えているので、遺伝情報や生命の発生過程でのエラーは起こりうるし、またそれに臨む親の行動や判断が宗教的環境で影響を受けることも理解できる。現在の科学技術の向上の勢いから見れば、不幸な胎児の誕生はそれほど遠くない時期に解決されるものと考えている。
人間は、今は食物連鎖の頂点にいるが、その歴史は、太陽系の誕生から見ればもちろんのこと、カンブリア紀からでも、エッフェル棟のてっぺんのペンキの皮程度であり、大げさに偉ぶれるものでもないのだと思う。宇宙も素粒子もまだよくわかっていないのだ。ma30