管制高地

二十世紀の大部分の期間、国は地位を高め、以前なら市場に任されていた部分に勢力を拡大していった。
国が勝利を収めたのは、革命があり、二回にわたる世界大戦があり、大恐慌があったからであり、政治家や政府の野心が強かったからである。‥‥。
背景には市場に対する不信感があった。‥‥「政府の知識」すなわち中央の政策決定者の集団的な知識が、「市場の知識」すなわち市場で個々ばらばらに判断をくだす民間の意思決定者や消費者の知識よりも優れているとみられていたからだった。‥‥‥‥
この考え方が極端な形であらわれたソ連中華人民共和国などの共産諸国では政府が市場の知識と私有財産をすべて抑圧し中央計画と生産手段の国有に置き換えようとした。政府は全知全能だとされた。西側の先進国の多くと、第三世界のかなりの部分では、「混合経済」がモデルになり、市場経済を完全に窒息させることはなかったが、政府が知識を活用し、経済を支配する立場にたった。‥‥公正な社会の実現、機会の提供、生活水準の向上を目指した。これらの目標を達成するために、経済全体を支配できる「管制高地」を制圧し、維持しようとした政府が多い。
「管制高地=コマンディング・ハイツ」という言葉は1922年のレーニンまで遡る。 レーニンの新経済政策では、中小企業と農業は民間の手に任せ、経済で最も重要な部分=管制高地(コマンディング・ハイツ)は国が握るというものだったが、スターリン主義によって市場は完全に抹殺された。
この言葉は大戦中に、イギリス労働党、インドの国民会議派など世界各地に広まった。ほとんどの政府が国民経済の戦略的部分・主要な企業と産業を支配する政策をとった。アメリカでも、国有化の政策はとられなかったが、政府が経済的規制によって経済の管制高地を支配するようになり、アメリカ特有の規制型資本主義が発展することになった。1970年代初めには、混合経済は事実上批判を受けることもなくなり、政府は役割を拡大していった。アメリカですら、ニクソン政権が賃金と物価を統制する大がかりな政策を実行しようとしている。
しかし、1990年代になると、後退を続けているのは政府の側になった。共産主義は失敗に終わっただけでなく、旧ソ連では完全に消滅し、中国でも少なくとも経済政策の面では棚上げにされている。欧米では、各国政府が経済への支配と責任の範囲を縮小している。「市場の失敗」に代わって「政府の失敗」が注目を集めるようになっ。‥‥アメリカの連邦準備制度理事会議長として、インフレを克服する戦いを指揮したポール・ボルカーは、この変化を「各国の政府が傲慢になっていたのだ」と説明している。
国が管制高地から撤退したことは、二十世紀と二十一世紀を隔てる大きな違いになるだろう。これまで門戸を閉ざしてきた多数の国が、貿易と投資に国内経済を開放し、グローバル経済の規模が大幅に拡大した。多数の雇用が創出された。
そして、経済の移動性が高まり、資本と技術が世界中をやすやすと動き回って、新たな市場と新たな機会、事業環境が良好な場所を探し求めている。しかし、労働者はそう簡単に移動できない。世界的な競争の激化と社会的安全網の喪失という二重の不安に怯えている。
新しい現実はグローバル化が進む過程ではなく、グローバル性とでも呼ぶべき状態である。‥‥コンピューターを中心とする情報技術によって、情報交換、調整、統合、連絡が容易になり、世界が一体化している。その変化の速度はきわめて速く、規模はきわめて大きいので、どの国の政府にとっても管理の能力をはるかに超えるものになっている。
管理型資本主義経済は、ケインズ理論が支柱になっている。これに対し、自由市場の資本主義を主張してきたのが
フリードリッヒ・フォン・ハイエクだった。当時ケインズ経済学は主導的立場にあり、ハイエクケインズ経済学を批判する無名に近い学者に過ぎなかった。戦後、政府による経済の管理を説くケインズ経済学は磐石だと思われてきた。しかし、それから半世紀たって、主流の座から転落したのはケインズであり、高く評価されるようになったのは、自由市場を強く擁護してきたハイエクである。
 ‥‥中略‥‥