市場対国家

市場対国家―世界を作り変える歴史的攻防〈上巻〉

市場対国家―世界を作り変える歴史的攻防〈上巻〉

市場対国家―世界を作り変える歴史的攻防〈下〉

市場対国家―世界を作り変える歴史的攻防〈下〉

原著の題は『The commanding heights』

The Battle Between Government and the Marketplace That is Remaking
The Modern World
実は、この本は、最後の提言で、国家と市場の境界を定める判断基準を示している点で、今日の話題にはなりにくくなっている。
成果(GDP成長率などの経済指標)、公正、国のアイデンティティ、環境、人口動態の五つのキーワードを掲げ、これらをどうクリアするかによって、市場の信認の質が決まるというものである。
キーワードそのものは極めて重要なものだが、市場か国家かという問いかけは、いまの時代には合わなくなってきている。
宇宙飛行士ドン・アイズリの「ネイション・ステイトはアンシャン・レジームになっている」「仮に世界政府があるとすれば、そこで開発すべきシステムを全部Googleが作ろう」というような時代である。
とはいえ国際社会はまだまだ未成熟で、危ない状況が続いている。核によるテロが起きたら人類自滅も仮想の話ではなくなるわけであるし,国家や国連による世界平和に頼らざるをえない現実がある。宗教対立、民族紛争、領土問題が複雑に絡み合い解決を難しくしてもいる。
国家は市場と対立するものではなく、これを補完するもの、というのが多くの国の共通理解だが、世界標準となるプランが完成しているというわけでもない。(往々にして人類の利益よりも国益が優先する。)
ただ、市場そのものが自らを造り替え、グローバル化していく圧倒的なスピードが際立ってきているので、これがプラネット・アースの時代を現実化する可能性があるのではと、期待している。
ネット上では、国家も企業も個人も同等の表現力を持っている。法の下・あるいは倫理という前提はあるが、自由な言論が保証されている。インターネットが変化を加速し、かつその変化を不可逆的のものにしていくのではないかと考えられるのである。
いまはそんな時代なのだが、日常の経済活動は、会社法会計基準を無視しては成り立たない。なぜ、会社法が施行されるに至ったか、なぜ道路公団民営化や郵政民営化が実現したのか? 
まずは第二次世界大戦後の世界経済の流れを理解しておく必要があるだろう。
この本は、最も優れた世界経済入門書だと確信している。20世紀の世界史の偉人や著名人が数多く登場する、リーダビリティ抜群の名著である。
要約したものから一部をご紹介する。要約なので引用ページが分からなくなっている。その点をご容赦願いたい。 

管制高地

二十世紀の大部分の期間、国は地位を高め、以前なら市場に任されていた部分に勢力を拡大していった。
国が勝利を収めたのは、革命があり、二回にわたる世界大戦があり、大恐慌があったからであり、政治家や政府の野心が強かったからである。‥‥。
背景には市場に対する不信感があった。‥‥「政府の知識」すなわち中央の政策決定者の集団的な知識が、「市場の知識」すなわち市場で個々ばらばらに判断をくだす民間の意思決定者や消費者の知識よりも優れているとみられていたからだった。‥‥‥‥
この考え方が極端な形であらわれたソ連中華人民共和国などの共産諸国では政府が市場の知識と私有財産をすべて抑圧し中央計画と生産手段の国有に置き換えようとした。政府は全知全能だとされた。西側の先進国の多くと、第三世界のかなりの部分では、「混合経済」がモデルになり、市場経済を完全に窒息させることはなかったが、政府が知識を活用し、経済を支配する立場にたった。‥‥公正な社会の実現、機会の提供、生活水準の向上を目指した。これらの目標を達成するために、経済全体を支配できる「管制高地」を制圧し、維持しようとした政府が多い。
「管制高地=コマンディング・ハイツ」という言葉は1922年のレーニンまで遡る。 レーニンの新経済政策では、中小企業と農業は民間の手に任せ、経済で最も重要な部分=管制高地(コマンディング・ハイツ)は国が握るというものだったが、スターリン主義によって市場は完全に抹殺された。
この言葉は大戦中に、イギリス労働党、インドの国民会議派など世界各地に広まった。ほとんどの政府が国民経済の戦略的部分・主要な企業と産業を支配する政策をとった。アメリカでも、国有化の政策はとられなかったが、政府が経済的規制によって経済の管制高地を支配するようになり、アメリカ特有の規制型資本主義が発展することになった。1970年代初めには、混合経済は事実上批判を受けることもなくなり、政府は役割を拡大していった。アメリカですら、ニクソン政権が賃金と物価を統制する大がかりな政策を実行しようとしている。
しかし、1990年代になると、後退を続けているのは政府の側になった。共産主義は失敗に終わっただけでなく、旧ソ連では完全に消滅し、中国でも少なくとも経済政策の面では棚上げにされている。欧米では、各国政府が経済への支配と責任の範囲を縮小している。「市場の失敗」に代わって「政府の失敗」が注目を集めるようになっ。‥‥アメリカの連邦準備制度理事会議長として、インフレを克服する戦いを指揮したポール・ボルカーは、この変化を「各国の政府が傲慢になっていたのだ」と説明している。
国が管制高地から撤退したことは、二十世紀と二十一世紀を隔てる大きな違いになるだろう。これまで門戸を閉ざしてきた多数の国が、貿易と投資に国内経済を開放し、グローバル経済の規模が大幅に拡大した。多数の雇用が創出された。
そして、経済の移動性が高まり、資本と技術が世界中をやすやすと動き回って、新たな市場と新たな機会、事業環境が良好な場所を探し求めている。しかし、労働者はそう簡単に移動できない。世界的な競争の激化と社会的安全網の喪失という二重の不安に怯えている。
新しい現実はグローバル化が進む過程ではなく、グローバル性とでも呼ぶべき状態である。‥‥コンピューターを中心とする情報技術によって、情報交換、調整、統合、連絡が容易になり、世界が一体化している。その変化の速度はきわめて速く、規模はきわめて大きいので、どの国の政府にとっても管理の能力をはるかに超えるものになっている。
管理型資本主義経済は、ケインズ理論が支柱になっている。これに対し、自由市場の資本主義を主張してきたのが
フリードリッヒ・フォン・ハイエクだった。当時ケインズ経済学は主導的立場にあり、ハイエクケインズ経済学を批判する無名に近い学者に過ぎなかった。戦後、政府による経済の管理を説くケインズ経済学は磐石だと思われてきた。しかし、それから半世紀たって、主流の座から転落したのはケインズであり、高く評価されるようになったのは、自由市場を強く擁護してきたハイエクである。
 ‥‥中略‥‥

混合経済への道

第二次大戦が終わったとき、世界の大部分の地域で、今日では想像が難しいほど資本主義は信頼を失っていた。資本主義は倫理の面からも疑わしく、貪欲に訴えるもの、不平等をもたらすもの、国民を裏切ったもの、戦争を引き起こした元凶だとする見方も強かった。もう一つ、これも今日では理解が難しくなっている点だが、西ヨーロッパでソ連経済が高く評価され敬意を持たれていたことである。
「欧米のほとんどの国で、ケインズ理論が管理型の資本主義、あるいは福祉志向の資本主義の理論的な基礎になっている。ケインズ理論の幅広い普及が、第二次大戦の後、欧米の工業国のほとんどで雇用の水準が一般に高くなったこと、経済に果たす国の役割についての態度が大きく変わったことの主因だといえる‥」
(1960年代半ばに刊行された経済思想史より)。
1950年から53年までの朝鮮戦争とそれに伴う軍備拡張が、先進工業国全体で経済成長を刺激する大きな要因になった。また、ソ連が経済開発に成功を収め高度成長を達成しているとみられていた。このため、東西のどちらが経済競争に勝つのか、そして第三世界でどちらの経済体制が支持されるのかが西側諸国でつねに懸念されていた。
1957年、ソ連が最初の人工衛星スプートニクを打ち上げた。これは快挙というにとどまらず、ソ連型の指令経済の活力を証明するものだとみられた。
とはいえ、西ヨーロッパ諸国の経済も戦後、めざましい成果をあげている。混合経済によって、戦争直後には予想できず、想像すらできなかったほど、生活水準が向上し、生活のスタイルが変わった。
イギリスでは、1950年代と60年代は福祉国家の黄金時代と呼ばれている。
フランスでは、ストライキの頻発、共産革命の恐れが過去の物語になった。この時期はフランスで「栄光の三十年間」と呼ばれている。ドイツは、社会的市場経済によって、エアハルトのいう「全国民が豊かになる社会」を実現する道を歩み「経済の奇跡」の国になった。1955年になると西ヨーロッパのすべての国で生産が戦前の水準を上回り、失業という悪は追放された。
ヨーロッパの先進国でこのような成功を収めたことから、全国民が豊かになれるように、政府が経済を管理し、その方向を定めるために積極的な役割を果たすべきだとする考え方、そして、多くの場合、経済の一部を所有すべきだとする考え方の正しさが実証された形になった。未曾有の経済成長の力を生かして、混合経済が新しい既成秩序の地位を確立し、毎年、その範囲を拡大していった。国は経済の管制高地を支配するか、財政政策の操縦桿を操作した。政府は福祉国家を確立して責任を負うようになり市場の「失敗」を是正することに全力をあげた。
こうした政策が経済の成功をもたらす公式になり、大戦間の不幸な時代‥第二次大戦の破壊の時代を葬り去ることができた。どのような基準でも、この時期は経済という観点でみて、まさに栄光の時代であった。

貿易と国の力

ケインズ理論をはじめとする混合経済の原則が共通して受け入れられるようになったことが一因になって、ヨーロッパ諸国はさまざまな違いがありながらも戦後三十年間に結束を強めてきた。この結束を究極的な形であらわしているのが今日の欧州連合(EU)である。
 ‥‥中略‥‥
つぎの一歩は1957年に起こった。‥‥‥‥‥‥‥‥‥56年秋の激動(スエズ動乱で欧米同盟国が対立し、ハンガリー動乱ソ連が民衆運動を圧殺した)に衝撃を受けて、ヨーロッパ六カ国がローマ条約に調印し、「ヨーロッパが再出発した」。この条約で欧州共同市場(欧州経済共同体)が設立され、多様な経済が統合をはかる前例のない動きがはじまった。各国の結束をもたらした要因は三つあった。混合経済を目指す合意、ドイツ問題解決の目標、ソ連圏の脅威である。
こうして、西欧各国の政府は、経済に対してこれまでより大きな責任を果たそうとする一方で、ヨーロッパ統合への動きを開始して逆の方向にも動き出した。つまり、貿易と投資の障壁を減らしていくことで、政府の権限を譲り渡す方向に第一歩を踏み出したのだ。これは、貿易障壁を低め、貿易を拡大させていく大きな流れの一部であり、この流れが政府の力に対抗するものになった。

推薦のことば

この後、イギリスではサッチャー革命、アメリカではレーガン改革、ともに小さな政府、規制緩和と自由な市場が形成されていくのである。
「景気が悪くなって(公共事業に資金を投入し)需要をつくり始めると、とめどがなくなる」と、竹中平蔵氏の対談にあったと記憶している。
日本は、バブル崩壊後、実に15年もの経済低迷期に入ってしまった。このバブルの発生と崩壊については、構造改革同様、複合的なものであり専門家の説明も様々である。次の日記で、参考になると思った著書をご紹介しながら現状の理解へと進みたい。20世紀のままの固い考え方では、21世紀での成功は望めない。20世紀の経済史は、新時代を理解する上で前提となる歴史である。そのためにも、ぜひ本書をお読みください。要約が不適切であれば、ご指摘ください。